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フアン・アントニオ・ビジャカーニャス (、1922年 - 2001年8月21日)は、トレド生まれ、スペインの詩人であり、エッセイスト、批評家。 == 来歴 == 1922年、スペインの中央部トレドで生まれる。スペイン内戦(1936-1939)により、中等教育を受ける期間は短く、兵役で、モロッコ北東部メリリャとアラン谷という異境へ行く。メリリャでは、Military Club図書館の再組織の責任者を務め、効果のある自学自習の方法である、広範囲のことを興味を持って読む作業を推奨した。(発展させた。)トレドに戻ったフアンは、町議会議員になり、後にそこで芸術文化課の責任者を長年務める。彼の詩集であるLos Sapos(1968)の中で彼は、権力に対しての批判とその悪用性を説き、町議会はそのような実際に存在する権力だと比喩した。 1956年に、ベルギーアカデミーフランス言語・文学(Belgian Academy of French language and literature)から、第3回クノックゾウト(ベルギー)・詩の国際美術展覧会(III Biennale Internationale de Poesie de Knokke-le-Zoute(Belgium))へ招待される。この頃から、スペイン文学研究者と詩人であるEdmond Vandercammenとの交友が始まる。Vandercammenは、彼の著書であるConjugacion Poetica del GrecoをLe Journal des Poetes(1959)の中で評価し、同雑誌(1972)にはフアンの詩をフランス語に翻訳し掲載した。ベルギー滞在の後、彼はパリでUNESCOのインタビューを受けるが、その時のインタビューの音声は、中南米に特別報道するため録音されている。1950年代以降、彼の作品は、国内外の詩集で見られるようになり始める。また同じ頃、彼の詩や批評の抜粋等が、様々な雑誌や新聞で見られるようになった。 フアンは、亡くなるまでトレドで暮らし、派閥や文学の流行に捉われることなく詩を創作し、彼独自の道を突き進んだ。そのような独特で自由な作風は、1980年代からそれ以降、権威ある既存の派閥やその当時の評価基準からは認められなかった。 しかし2001年以降、スペイン内外でフアンの作品を賞讃する詩人や批評家たちが増えていった。21世紀になるまでの数十年間を打ち破って、フアンの重要性が再認識されているのである。この輝かしい台頭は、Emilio PortaやPablo Luque Pinilla、Robert Carlos Hernandez Ferro、Enrique Gracia、Micheal Smithなどの詩人と批評家たちの正しい評価によるものである。2010年のトレドである毎年恒例の本の展示会は、故フアンに捧げられ、娘であるBeatriz Villacanasが開会のスピーチをした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フアン・アントニオ・ビジャカーニャス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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